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なぜ三河には真宗大谷派のお寺が多いの?~徳川家康と浄土真宗の意外な関係~

皆さんは、愛知県が全国でも特にお寺の多い県だということをご存じでしょうか。

実は、愛知県の寺院数は全国第1位。

県内には約4,500のお寺があり、その数はコンビニエンスストアよりも多いといわれています。

普段、街を歩いているとコンビニはよく目にしますが、それ以上にお寺があると思うと、少し驚きませんか?

 

では、私たちが暮らす三河地方ではどうでしょうか。

三河地方にも数多くのお寺がありますが、その中でもよく見かけるのが「真宗大谷派(しんしゅうおおたには)」のお寺です。

真宗大谷派は、京都の東本願寺を本山とする浄土真宗の宗派です。

一方、同じ浄土真宗には、西本願寺を本山とする「浄土真宗本願寺派」もあります。

同じ親鸞聖人の教えを受け継いでいるのに、なぜ東本願寺と西本願寺に分かれているのでしょうか。

そして、なぜ三河地方には東本願寺のお寺が多いのでしょうか。

その歴史をたどると、三河出身の有名な戦国武将、徳川家康の名前が登場します。

 

 

時代は今から460年以上前、戦国時代にさかのぼります。

当時の三河地方には、すでに浄土真宗の教えが広く浸透していました。

その中心となっていたのが、現在の安城市にある「本證寺(ほんしょうじ)」、岡崎市の「上宮寺(じょうぐうじ)」と「勝鬘寺(しょうまんじ)」です。

この三つのお寺は「三河三か寺」と呼ばれ、多くの門徒(信者)を抱える大きな勢力でした。

1563年、若き徳川家康と浄土真宗の門徒たちとの間で、大きな争いが起こります。

これが「三河一向一揆」です。

この争いが家康にとって厄介だったのは、敵対した門徒たちの中に、自分の家臣まで含まれていたことでした。

家康への忠誠を取るのか、それとも自分たちの信仰を守るのか。

家臣たちも二つに分かれ、家康は大変な苦戦を強いられます。

最終的に家康は一揆を鎮圧し、三河から一向宗の僧侶たちを追放しました。

しかし、その後は帰還を認め、お寺も再び復興していくことになります。

 

三河 葬儀

 

ここで少し、浄土真宗の歴史を見てみましょう。

現在は東本願寺と西本願寺がありますが、実は三河一向一揆が起こった時代には、まだ東西に分かれていませんでした。

もともとは同じ「本願寺」だったのです。

その本願寺が大きく揺れたのが、織田信長との戦いでした。

本願寺は信長と約10年間にわたって戦いましたが、1580年、和睦を受け入れることになります。

ところが、本願寺の内部では意見が分かれていました。

当時の宗主であった顕如(けんにょ)は和睦を受け入れましたが、長男の教如(きょうにょ)は、なおも抵抗を続けようとしたのです。

この対立は、やがて本願寺の後継者問題へと発展していきます。

顕如の死後、教如はいったん本願寺を継ぎますが、豊臣秀吉の介入によって退き、弟の准如(じゅんにょ)が後を継ぐことになりました。

こうして、本願寺の内部には二つの流れが生まれます。

 

西尾市 葬儀会館

 

そして1602年。

ここで再び、徳川家康が登場します。

家康は教如に京都の土地を寄進しました。

教如はその土地に新たな本願寺を建立します。

これが、現在の東本願寺につながります。

一方、准如が継いだ本願寺は、現在の西本願寺につながっていきました。

こうして、本願寺は東西に分かれることになったのです。

では、なぜ家康は教如を支援したのでしょうか。

 

これについては諸説あります。

その一つが、三河一向一揆で苦しめられた家康が、本願寺の大きな勢力を分散させようとしたのではないか、という説です。

ただし、本願寺の内部には家康が関わる以前から対立がありました。

そのため、家康が最初から分裂を計画していたと断定することはできません。

それでも、東本願寺の成立に家康が大きく関わったことは、歴史上の事実です。

 

 

愛知 家族葬

 

さて、ここからが三河地方のお話です。

本願寺が東西に分かれたとき、かつて三河一向一揆の中心となった本證寺・上宮寺・勝鬘寺の「三河三か寺」は、いずれも東本願寺側につきました。

この三つのお寺は、それぞれ多くの末寺や門徒を抱えていました。

特に本證寺は、江戸時代に東本願寺と地域のお寺を結ぶ重要な役割を担うようになります。

つまり、三河の有力なお寺が東本願寺側についたことは、その周辺にあるお寺の宗派にも影響を与えたと考えられるのです。

では、なぜ三河三か寺は東本願寺側についたのでしょうか。

これについても、はっきりとした理由を一つに絞ることはできません。

教如と三河の寺院との間には、東西分立以前からつながりがあったと伝えられています。

こうした人々の関係や、地域のお寺同士の結びつきが影響した可能性も考えられます。

 

三河 葬式

 

三河地方に真宗大谷派のお寺が多い理由については、さまざまな見方があります。

しかし、歴史を振り返ると、三河には東西分立以前から浄土真宗の教えが深く根付いていたことが分かります。

そして1602年の東西分立では、三河一向一揆の中心だった三河三か寺が、そろって東本願寺側につきました。

こうした有力寺院と周辺のお寺とのつながりが、現在の三河地方の宗教文化にも影響を残していると考えられています。

かつて徳川家康と激しく争った三河三か寺が、約40年後には、家康の支援によって成立した東本願寺側についた。

そう考えると、なかなか興味深い歴史ではないでしょうか。

私たちが普段何気なく目にしている地域のお寺にも、実は戦国時代から続く長い歴史が息づいているのですね。

 

家族葬の結家

磯貝


 

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